子どもにとっての「楽しい」は、親の想像を超えてくる
子どもは体験に興味が湧く
家族で山口県へ旅行に行った時の話
旅行の目的はいくつかあったが、その中でもワイが特に楽しみにしていたのが鍾乳洞だった。
山口県といえば、日本でも有数の大きな鍾乳洞がある。
せっかく山口まで来たのだから、子どもたちにも見せてあげたい。
何万年、何十万年という時間をかけて作られた自然の芸術。
大人の私ですら感動する場所だ。
きっと子どもたちも驚くだろう。そう思っていた。
旅行当日。
鍾乳洞へ向かう道中からワイはワクワクしていた。
「すごいぞー」
「こんな大きな鍾乳洞なかなか見られないぞ」
「写真もいっぱい撮ろうな」
そんなことを言いながら歩いていた。
子どもたちも楽しそうにしていた。
私は勝手に、「これは子どもたちの思い出に残るだろうな」と思っていた。
実際に鍾乳洞へ入ると圧巻だった。
巨大な空間。天井から垂れ下がる鍾乳石。神秘的な雰囲気。
自然が作ったとは思えない景色。
私は心の中で「やっぱりすごいなぁ」と思っていた。
子どもたちにも「ほら見てみろ」「すごいだろ」と言いながら進んでいく。
子どもたちも「大きい!」「なんでこんな形なの?」と反応していた。
私はそれを見て「よし、連れてきて良かった」と思っていた。
旅行を満喫し、その日の夜。
家族でご飯を食べながら、子どもたちに聞いてみた。
「今日、一番楽しかったことは何?」
私は当然、鍾乳洞の話が出てくると思っていた。
あれだけ大きな鍾乳洞だ。
私自身も感動した。だから子どもたちも同じだろうと思っていた。
すると返ってきた答えは予想外だった。
「魚を捕まえたこと!」満面の笑みだった。
私は一瞬固まった。鍾乳洞じゃないの?
あんなに大きな鍾乳洞を見たのに?何万年もかけてできた自然の神秘より?
魚?と思った。
そこで昼間の出来事を思い出した。
鍾乳洞を見終わったあと、近くの川へ行った。
透き通った綺麗な川だった。
魚が泳いでいる。
子どもたちは魚を見つけるなり大興奮。
網を持って追いかけ始めた。
びしょ濡れになりながら魚を追う。
石をひっくり返す。逃げられる。また追いかける。捕まる。逃げられる。また追いかける。
その繰り返し。
正直、その時の私は「まあ楽しそうで良かったな」くらいにしか思っていなかった。
鍾乳洞の方がメインイベントだと思っていたからだ。
しかし子どもにとっては違った。
魚を見つけた。追いかけた。逃げられた。悔しかった。また挑戦した。そして捕まえた。
その体験こそが、その日の一番の思い出だった。
その瞬間、私は気付いた。感動していたのは私だった。子どもではない。
私は鍾乳洞の価値を知っている。何万年という時間。地学的な価値。歴史的な価値。観光地としての価値。
そういう知識や経験があるから感動できる。
でも子どもは違う。
子どもにとって大事なのは、
価値の高さではない。
有名かどうかでもない。
自分で体験したかどうか。
魚を追いかけた。捕まえた。失敗した。成功した。
その時間の方が何倍も価値があったのだ。
ワイはそこで、親の価値観を押し付けていたことに気付いた。
「これはすごいぞ」「これは価値があるぞ」「これは感動するぞ」
それは全部、大人の価値観だった。
もちろん子どもに色々な経験をさせることは大切だと思う。
でも、親が感動したものを子どもも感動するはずだ。そう思い込むのは違うのかもしれない。
考えてみれば私自身もそうだった。
子どもの頃の思い出を振り返ると、有名な観光地よりも、友達と秘密基地を作ったこと。川で魚を捕まえたこと。虫を追いかけたこと。公園で日が暮れるまで遊んだこと。
そういう体験の方が鮮明に残っている。
大人になると忘れてしまう。
価値が高いもの。有名なもの。珍しいもの。高額なもの。
そういうものを追いかけるようになる。
でも子どもは違う。
楽しかったか。夢中になれたか。自分でやったか。
それだけだ。
今回の旅行で一番学んだのは私だった。
鍾乳洞を見せてあげたつもりだった。
でも実際は、自分が見せたかっただけだった。
子どもは魚を追いかけていた。
私は鍾乳洞を見ていた。
同じ場所にいたのに、見ていた世界が違った。
それ以来、子どもと出かける時は少し考え方が変わった。
どこへ連れて行くかより、何を体験するか。
何を見せるかより、何をやらせるか。
親が感動する場所を探すより、子どもが夢中になれる時間を作る方が大切なのかもしれない。
山口県の大きな鍾乳洞。確かに素晴らしかった。今でも感動している。
でも子どもの記憶に残ったのは、あの川で必死に追いかけた一匹の魚だった。
そして、その話を聞いた時に思った。
子育てとは、子どもに価値を教えることではなく、子どもが何に価値を感じるのかを知ることなのかもしれない。
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